> 1607年3月23日、相島を出発した第1次朝鮮通信使一行は日本本土に第一歩を踏んだ。
今の下関である赤間関に到着したのだ。釜山(プサン)を出発して24日だ。烽火台と連絡船で通信使船団の位置をきちんと把握していた長州藩は数百隻の船を浮かべて通信使らを迎えた。福岡藩から小倉藩、長州藩につながるリレー式海上道案内を何回も練習した結果だ。臨時接岸施設を通じて陸に上がった通信使一行は長州藩が敷いた赤い布の上を100メートルほど歩いて宿所まで移動した。
第一次朝鮮通信使が日本に訪れて、今年がちょうど400年目という記念すべき年です。ところが、世間ではそれほど話題にならないのが現状。やはり、現在の北朝鮮問題など、朝鮮半島に関わる話題に関しては、多少なりともナーバスになっていることなのでしょう。韓国からの使節を赤いじゅうたん(布)を敷いて、最高のもてなしをする長州藩の 行動からも朝鮮通信使がいかに日本の歴史文化において重要な存在であったかが窺い知れます。
ところが、この朝鮮通信使においては、日本にあまり資料が存在してないということも事実なのです。このことは日本史の明治維新に深く関わっています。明治維新の立役者でもあった長州藩と薩摩藩。後に明治新政府の主役であったこの勢力は、征韓論を叫び、朝鮮通信使と朝鮮文化のほとんどの痕跡を消したと言われています。事実、下関市史に全部で11回立ち寄った朝鮮通信使が、8回来たと間違って記録されるほど下関から通信使の跡が消えたそうなのです。
当時の政局の事情はあるのでしょうが、歴史は事実を粛々と記録すべきであり、時のイデオロギーや思想によって左右されるべきではない。日本は、歴史の事実をささやかな時事の事情によって貴重な資料を失っているのではないでしょうか。
1 件のコメント:
確かにね。歴史は正確に残されるべきだね。
そういえば、韓国はあまりに歴史の資料がないせいでいろいろと捏造がひどいみたいですね。こういった話に日本を引き合いに出さないほうがいいですよ。過去の隠蔽と捏造は韓国の十八番だからね。
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